八 - 4

类别:文学名著 作者:夏目漱石 本章:八 - 4

    逆上の説明はこのくらいで充分だろうと思うから、これよりいよいよ事件に取りかかる。しかしすべての大事件の前には必ず小事件が起るものだ。大事件のみを述べて、小事件を逸するのは古来から歴史家の常に陥(おちい)る弊竇(へいとう)である。主人の逆上も小事件に逢う度に一層の劇甚(げきじん)を加えて、ついに大事件を引き起したのであるからして、幾分かその発達を順序立てて述べないと主人がいかに逆上しているか分りにくい。分りにくいと主人の逆上は空名に帰して、世間からはよもやそれほどでもなかろうと見くびられるかも知れない。せっかく逆上しても人から天晴(あっぱれ)な逆上と謡(うた)われなくては張り合がないだろう。これから述べる事件は大小に係(かかわ)らず主人に取って名誉な者ではない。事件その物が不名誉であるならば、責(せ)めて逆上なりとも、正銘(しょうめい)の逆上であって、決して人に劣るものでないと云う事を明かにしておきたい。主人は他に対して別にこれと云って誇るに足る性質を有しておらん。逆上でも自慢しなくてはほかに骨を折って書き立ててやる種がない。

    落雲館に群がる敵軍は近日に至って一種のダムダム弾を発明して、十分(じっぷん)の休暇、もしくは放課後に至って熾(さかん)に北側の空地(あきち)に向って砲火を浴びせかける。このダムダム弾は通称をボールと称(とな)えて、擂粉木(すりこぎ)の大きな奴をもって任意これを敵中に発射する仕掛である。いくらダムダムだって落雲館の運動場から発射するのだから、書斎に立て籠(こも)ってる主人に中(あた)る気遣(きづかい)はない。敵といえども弾道のあまり遠過ぎるのを自覚せん事はないのだけれど、そこが軍略である。旅順の戦争にも海軍から間接射撃を行って偉大な功を奏したと云う話であれば、空地へころがり落つるボールといえども相当の功果を収め得ぬ事はない。いわんや一発を送る度(たび)に総軍力を合せてわーと威嚇性(いかくせい)大音声(だいおんじょう)を出(いだ)すにおいてをやである。主人は恐縮の結果として手足に通う血管が収縮せざるを得ない。煩悶(はんもん)の極(きょく)そこいらを迷付(まごつ)いている血が逆(さか)さに上(のぼ)るはずである。敵の計(はかりごと)はなかなか巧妙と云うてよろしい。昔(むか)し希臘(ギリシャ)にイスキラスと云う作家があったそうだ。この男は学者作家に共通なる頭を有していたと云う。吾輩のいわゆる学者作家に共通なる頭とは禿(はげ)と云う意味である。なぜ頭が禿げるかと云えば頭の営養不足で毛が生長するほど活気がないからに相違ない。学者作家はもっとも多く頭を使うものであって大概は貧乏に極(きま)っている。だから学者作家の頭はみんな営養不足でみんな禿げている。さてイスキラスも作家であるから自然の勢(いきおい)禿げなくてはならん。彼はつるつる然たる金柑頭(きんかんあたま)を有しておった。ところがある日の事、先生例の頭――頭に外行(よそゆき)も普段着(ふだんぎ)もないから例の頭に極ってるが――その例の頭を振り立て振り立て、太陽に照らしつけて往来をあるいていた。これが間違いのもとである。禿げ頭を日にあてて遠方から見ると、大変よく光るものだ。高い木には風があたる、光かる頭にも何かあたらなくてはならん。この時イスキラスの頭の上に一羽の鷲(わし)が舞っていたが、見るとどこかで生捕(いけど)った一疋(ぴき)の亀を爪の先に攫(つか)んだままである。亀、スッポンなどは美味に相違ないが、希臘時代から堅い甲羅(こうら)をつけている。いくら美味でも甲羅つきではどうする事も出来ん。海老(えび)の鬼殻焼(おにがらやき)はあるが亀の子の甲羅煮は今でさえないくらいだから、当時は無論なかったに極っている。さすがの鷲(わし)も少々持て余した折柄(おりから)、遥(はる)かの下界にぴかと光った者がある。その時鷲はしめたと思った。あの光ったものの上へ亀の子を落したなら、甲羅は正(まさ)しく砕けるに極(き)わまった。砕けたあとから舞い下りて中味(なかみ)を頂戴(ちょうだい)すれば訳はない。そうだそうだと覗(ねらい)を定めて、かの亀の子を高い所から挨拶も無く頭の上へ落した。生憎(あいにく)作家の頭の方が亀の甲より軟らかであったものだから、禿はめちゃめちゃに砕けて有名なるイスキラスはここに無惨(むざん)の最後を遂げた。それはそうと、解(げ)しかねるのは鷲の了見である。例の頭を、作家の頭と知って落したのか、または禿岩と間違えて落したものか、解決しよう次第で、落雲館の敵とこの鷲とを比較する事も出来るし、また出来なくもなる。主人の頭はイスキラスのそれのごとく、また御歴々(おれきれき)の学者のごとくぴかぴか光ってはおらん。しかし六畳敷にせよいやしくも書斎と号する一室を控(ひか)えて、居眠りをしながらも、むずかしい書物の上へ顔を翳(かざ)す以上は、学者作家の同類と見傚(みな)さなければならん。そうすると主人の頭の禿げておらんのは、まだ禿げるべき資格がないからで、その内に禿げるだろうとは近々(きんきん)この頭の上に落ちかかるべき運命であろう。して見れば落雲館の生徒がこの頭を目懸けて例のダムダム丸(がん)を集注するのは策のもっとも時宜(じぎ)に適したものと云わねばならん。もし敵がこの行動を二週間継続するならば、主人の頭は畏怖(いふ)と煩悶(はんもん)のため必ず営養の不足を訴えて、金柑(きんかん)とも薬缶(やかん)とも銅壺(どうこ)とも変化するだろう。なお二週間の砲撃を食(くら)えば金柑は潰(つぶ)れるに相違ない。薬缶は洩(も)るに相違ない。銅壺ならひびが入るにきまっている。この睹易(みやす)き結果を予想せんで、あくまでも敵と戦闘を継続しようと苦心するのは、ただ本人たる苦沙弥先生のみである。


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