九 - 4

类别:文学名著 作者:夏目漱石 本章:九 - 4

    鏡は己惚(うぬぼれ)の醸造器であるごとく、同時に自慢の消毒器である。もし浮華虚栄の念をもってこれに対する時はこれほど愚物を煽動(せんどう)する道具はない。昔から増上慢(ぞうじょうまん)をもって己(おのれ)を害し他を (そこの)うた事蹟(じせき)の三分の二はたしかに鏡の所作(しょさ)である。仏国革命の当時物好きな御医者さんが改良首きり器械を発明して飛んだ罪をつくったように、始めて鏡をこしらえた人も定めし寝覚(ねざめ)のわるい事だろう。しかし自分に愛想(あいそ)の尽きかけた時、自我の萎縮した折は鏡を見るほど薬になる事はない。妍醜瞭然(けんしゅうりょうぜん)だ。こんな顔でよくまあ人で候(そうろう)と反(そ)りかえって今日(こんにち)まで暮らされたものだと気がつくにきまっている。そこへ気がついた時が人間の生涯(しょうがい)中もっともありがたい期節である。自分で自分の馬鹿を承知しているほど尊(たっ)とく見える事はない。この自覚性(じかくせい)馬鹿(ばか)の前にはあらゆるえらがり屋がことごとく頭を下げて恐れ入らねばならぬ。当人は昂然(こうぜん)として吾を軽侮(けいぶ)嘲笑(ちょうしょう)しているつもりでも、こちらから見るとその昂然たるところが恐れ入って頭を下げている事になる。主人は鏡を見て己(おの)れの愚を悟るほどの賢者ではあるまい。しかし吾が顔に印せられる痘痕(とうこん)の銘(めい)くらいは公平に読み得る男である。顔の醜いのを自認するのは心の賤(いや)しきを会得(えとく)する楷梯(かいてい)にもなろう。たのもしい男だ。これも哲学者からやり込められた結果かも知れぬ。

    かように考えながらなお様子をうかがっていると、それとも知らぬ主人は思う存分あかんべえをしたあとで「大分(だいぶ)充血しているようだ。やっぱり慢性結膜炎だ」と言いながら、人さし指の横つらでぐいぐい充血した瞼(まぶた)をこすり始めた。大方(おおかた)痒(かゆ)いのだろうけれども、たださえあんなに赤くなっているものを、こう擦(こす)ってはたまるまい。遠からぬうちに塩鯛(しおだい)の眼玉のごとく腐爛(ふらん)するにきまってる。やがて眼を開(ひら)いて鏡に向ったところを見ると、果せるかなどんよりとして北国の冬空のように曇っていた。もっとも平常(ふだん)からあまり晴れ晴れしい眼ではない。誇大な形容詞を用いると混沌(こんとん)として黒眼と白眼が剖判(ほうはん)しないくらい漠然(ばくぜん)としている。彼の精神が朦朧(もうろう)として不得要領底(てい)に一貫しているごとく、彼の眼も曖々然(あいあいぜん)昧々然(まいまいぜん)として長(とこし)えに眼窩(がんか)の奥に漂(ただよ)うている。これは胎毒(たいどく)のためだとも云うし、あるいは疱瘡(ほうそう)の余波だとも解釈されて、小さい時分はだいぶ柳の虫や赤蛙の厄介になった事もあるそうだが、せっかく母親の丹精も、あるにその甲斐(かい)あらばこそ、今日(こんにち)まで生れた当時のままでぼんやりしている。吾輩ひそかに思うにこの状態は決して胎毒や疱瘡のためではない。彼の眼玉がかように晦渋溷濁(かいじゅうこんだく)の悲境に彷徨(ほうこう)しているのは、とりも直さず彼の頭脳が不透不明(ふとうふめい)の実質から構成されていて、その作用が暗憺溟濛(あんたんめいもう)の極に達しているから、自然とこれが形体の上にあらわれて、知らぬ母親にいらぬ心配を掛けたんだろう。煙たって火あるを知り、まなこ濁って愚(ぐ)なるを証す。して見ると彼の眼は彼の心の象徴で、彼の心は天保銭(てんぽうせん)のごとく穴があいているから、彼の眼もまた天保銭と同じく、大きな割合に通用しないに違ない。

    今度は髯(ひげ)をねじり始めた。元来から行儀のよくない髯でみんな思い思いの姿勢をとって生(は)えている。いくら個人主義が流行(はや)る世の中だって、こう町々(まちまち)に我儘(わがまま)を尽くされては持主の迷惑はさこそと思いやられる、主人もここに鑑(かんが)みるところあって近頃は大(おおい)に訓練を与えて、出来る限り系統的に按排(あんばい)するように尽力している。その熱心の功果(こうか)は空(むな)しからずして昨今ようやく歩調が少しととのうようになって来た。今までは髯が生(は)えておったのであるが、この頃は髯を生やしているのだと自慢するくらいになった。熱心は成効の度に応じて鼓舞(こぶ)せられるものであるから、吾が髯の前途有望なりと見てとって主人は朝な夕な、手がすいておれば必ず髯(ひげ)に向って鞭撻(べんたつ)を加える。彼のアムビションは独逸(ドイツ)皇帝陛下のように、向上の念の熾(さかん)な髯を蓄(たくわ)えるにある。それだから毛孔(けあな)が横向であろうとも、下向であろうとも聊(いささ)か頓着なく十把一(じっぱひ)とからげに握(にぎ)っては、上の方へ引っ張り上げる。髯もさぞかし難儀であろう、所有主たる主人すら時々は痛い事もある。がそこが訓練である。否(いや)でも応でもさかに扱(こ)き上げる。門外漢から見ると気の知れない道楽のようであるが、当局者だけは至当の事と心得ている。教育者がいたずらに生徒の本性(ほんせい)を撓(た)めて、僕の手柄を見給えと誇るようなもので毫(ごう)も非難すべき理由はない。

    主人が満腔(まんこう)の熱誠をもって髯を調練していると、台所から多角性の御三(おさん)が郵便が参りましたと、例のごとく赤い手をぬっと書斎の中(うち)へ出した。右手(みぎ)に髯をつかみ、左手(ひだり)に鏡を持った主人は、そのまま入口の方を振りかえる。八の字の尾に逆(さ)か立(だ)ちを命じたような髯を見るや否や御多角(おたかく)はいきなり台所へ引き戻して、ハハハハと御釜(おかま)の蓋(ふた)へ身をもたして笑った。主人は平気なものである。悠々(ゆうゆう)と鏡をおろして郵便を取り上げた。第一信は活版ずりで何だかいかめしい文字が並べてある。読んで見ると


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