十 - 4

类别:文学名著 作者:夏目漱石 本章:十 - 4

    この時主人は、昨日(きのう)紹介した混沌(こんとん)たる太古の眼を精一杯に見張って、向うの戸棚をきっと見た。これは高さ一間を横に仕切って上下共各(おのおの)二枚の袋戸をはめたものである。下の方の戸棚は、布団(ふとん)の裾(すそ)とすれすれの距離にあるから、起き直った主人が眼をあきさえすれば、天然自然ここに視線がむくように出来ている。見ると模様を置いた紙がところどころ破れて妙な腸(はらわた)があからさまに見える。腸にはいろいろなのがある。あるものは活版摺(かっぱんずり)で、あるものは肉筆である。あるものは裏返しで、あるものは逆さまである。主人はこの腸を見ると同時に、何がかいてあるか読みたくなった。今までは車屋のかみさんでも捕(つらま)えて、鼻づらを松の木へこすりつけてやろうくらいにまで怒(おこ)っていた主人が、突然この反古紙(ほごがみ)を読んで見たくなるのは不思議のようであるが、こう云う陽性の癇癪持ちには珍らしくない事だ。小供が泣くときに最中(もなか)の一つもあてがえばすぐ笑うと一般である。主人が昔(むか)し去る所の御寺に下宿していた時、襖(ふすま)一(ひ)と重(え)を隔てて尼が五六人いた。尼などと云うものは元来意地のわるい女のうちでもっとも意地のわるいものであるが、この尼が主人の性質を見抜いたものと見えて自炊の鍋(なべ)をたたきながら、今泣いた烏がもう笑った、今泣いた烏がもう笑ったと拍子を取って歌ったそうだ、主人が尼が大嫌になったのはこの時からだと云うが、尼は嫌(きらい)にせよ全くそれに違ない。主人は泣いたり、笑ったり、嬉しがったり、悲しがったり人一倍もする代りにいずれも長く続いた事がない。よく云えば執着がなくて、心機(しんき)がむやみに転ずるのだろうが、これを俗語に翻訳してやさしく云えば奥行のない、薄(うす)っ片(ぺら)の、鼻(はな)っ張(ぱり)だけ強いだだっ子である。すでにだだっ子である以上は、喧嘩をする勢で、むっくと刎(は)ね起きた主人が急に気をかえて袋戸(ふくろど)の腸を読みにかかるのももっともと云わねばなるまい。第一に眼にとまったのが伊藤博文の逆(さ)か立(だ)ちである。上を見ると明治十一年九月廿八日とある。韓国統監(かんこくとうかん)もこの時代から御布令(おふれ)の尻尾(しっぽ)を追っ懸けてあるいていたと見える。大将この時分は何をしていたんだろうと、読めそうにないところを無理によむと大蔵卿(おおくらきょう)とある。なるほどえらいものだ、いくら逆か立ちしても大蔵卿である。少し左の方を見ると今度は大蔵卿横になって昼寝をしている。もっともだ。逆か立ちではそう長く続く気遣(きづかい)はない。下の方に大きな木板(もくばん)で汝はと二字だけ見える、あとが見たいがあいにく露出しておらん。次の行には早くの二字だけ出ている。こいつも読みたいがそれぎれで手掛りがない。もし主人が警視庁の探偵であったら、人のものでも構わずに引っぺがすかも知れない。探偵と云うものには高等な教育を受けたものがないから事実を挙げるためには何でもする。あれは始末に行(ゆ)かないものだ。願(ねがわ)くばもう少し遠慮をしてもらいたい。遠慮をしなければ事実は決して挙げさせない事にしたらよかろう。聞くところによると彼等は羅織虚構(らしききょこう)をもって良民を罪に陥(おとしい)れる事さえあるそうだ。良民が金を出して雇っておく者が、雇主を罪にするなどときてはこれまた立派な気狂(きちがい)である。次に眼を転じて真中を見ると真中には大分県(おおいたけん)が宙返りをしている。伊藤博文でさえ逆か立ちをするくらいだから、大分県が宙返りをするのは当然である。主人はここまで読んで来て、双方へ握(にぎ)り拳(こぶし)をこしらえて、これを高く天井に向けて突きあげた。あくびの用意である。

    このあくびがまた鯨(くじら)の遠吠(とおぼえ)のようにすこぶる変調を極(きわ)めた者であったが、それが一段落を告げると、主人はのそのそと着物をきかえて顔を洗いに風呂場へ出掛けて行った。待ちかねた細君はいきなり布団(ふとん)をまくって夜着(よぎ)を畳んで、例の通り掃除をはじめる。掃除が例の通りであるごとく、主人の顔の洗い方も十年一日のごとく例の通りである。先日紹介をしたごとく依然としてがーがー、げーげーを持続している。やがて頭を分け終って、西洋手拭(てぬぐい)を肩へかけて、茶の間へ出御(しゅつぎょ)になると、超然として長火鉢の横に座を占めた。長火鉢と云うと欅(けやき)の如輪木(じょりんもく)か、銅(あか)の総落(そうおと)しで、洗髪(あらいがみ)の姉御が立膝で、長煙管(ながぎせる)を黒柿(くろがき)の縁(ふち)へ叩きつける様を想見する諸君もないとも限らないが、わが苦沙弥(くしゃみ)先生の長火鉢に至っては決して、そんな意気なものではない、何で造ったものか素人(しろうと)には見当(けんとう)のつかんくらい古雅なものである。長火鉢は拭き込んでてらてら光るところが身上(しんしょう)なのだが、この代物(しろもの)は欅か桜か桐(きり)か元来不明瞭な上に、ほとんど布巾(ふきん)をかけた事がないのだから陰気で引き立たざる事夥(おびただ)しい。こんなものをどこから買って来たかと云うと、決して買った覚(おぼえ)はない。そんなら貰ったかと聞くと、誰もくれた人はないそうだ。しからば盗んだのかと糺(ただ)して見ると、何だかその辺が曖昧(あいまい)である。昔し親類に隠居がおって、その隠居が死んだ時、当分留守番を頼まれた事がある。ところがその後一戸を構えて、隠居所を引き払う際に、そこで自分のもののように使っていた火鉢を何の気もなく、つい持って来てしまったのだそうだ。少々たちが悪いようだ。考えるとたちが悪いようだがこんな事は世間に往々ある事だと思う。銀行家などは毎日人の金をあつかいつけているうちに人の金が、自分の金のように見えてくるそうだ。役人は人民の召使である。用事を弁じさせるために、ある権限を委托した代理人のようなものだ。ところが委任された権力を笠(かさ)に着て毎日事務を処理していると、これは自分が所有している権力で、人民などはこれについて何らの喙(くちばし)を容(い)るる理由がないものだなどと狂ってくる。こんな人が世の中に充満している以上は長火鉢事件をもって主人に泥棒根性があると断定する訳には行かぬ。もし主人に泥棒根性があるとすれば、天下の人にはみんな泥棒根性がある。


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