十 - 1

类别:文学名著 作者:夏目漱石 本章:十 - 1

    「あなた、もう七時ですよ」と襖越(ふすまご)しに細君が声を掛けた。主人は眼がさめているのだか、寝ているのだか、向うむきになったぎり返事もしない。返事をしないのはこの男の癖である。ぜひ何とか口を切らなければならない時はうんと云(い)う。このうんも容易な事では出てこない。人間も返事がうるさくなるくらい無精(ぶしょう)になると、どことなく趣(おもむき)があるが、こんな人に限って女に好かれた試しがない。現在連れ添う細君ですら、あまり珍重しておらんようだから、その他は推(お)して知るべしと云っても大した間違はなかろう。親兄弟に見離され、あかの他人の傾城(けいせい)に、可愛がらりょうはずがない、とある以上は、細君にさえ持てない主人が、世間一般の淑女に気に入るはずがない。何も異性間に不人望な主人をこの際ことさらに暴露(ばくろ)する必要もないのだが、本人において存外な考え違をして、全く年廻りのせいで細君に好かれないのだなどと理窟をつけていると、迷(まよい)の種であるから、自覚の一助にもなろうかと親切心からちょっと申し添えるまでである。

    言いつけられた時刻に、時刻がきたと注意しても、先方がその注意を無にする以上は、向(むこう)をむいてうんさえ発せざる以上は、その曲(きょく)は夫にあって、妻にあらずと論定したる細君は、遅くなっても知りませんよと云う姿勢で箒(ほうき)とはたきを担(かつ)いで書斎の方へ行ってしまった。やがてぱたぱた書斎中を叩(たた)き散らす音がするのは例によって例のごとき掃除を始めたのである。一体掃除の目的は運動のためか、遊戯のためか、掃除の役目を帯びぬ吾輩の関知するところでないから、知らん顔をしていれば差(さ)し支(つか)えないようなものの、ここの細君の掃除法のごときに至ってはすこぶる無意義のものと云わざるを得ない。何が無意義であるかと云うと、この細君は単に掃除のために掃除をしているからである。はたきを一通り障子(しょうじ)へかけて、箒を一応畳の上へ滑(すべ)らせる。それで掃除は完成した者と解釈している。掃除の源因及び結果に至っては微塵(みじん)の責任だに背負っておらん。かるが故に奇麗な所は毎日奇麗だが、ごみのある所、ほこりの積っている所はいつでもごみが溜(たま)ってほこりが積っている。告朔(こくさく)の 羊(きよう)と云う故事(こじ)もある事だから、これでもやらんよりはましかも知れない。しかしやっても別段主人のためにはならない。ならないところを毎日毎日御苦労にもやるところが細君のえらいところである。細君と掃除とは多年の習慣で、器械的の連想をかたちづくって頑(がん)として結びつけられているにもかかわらず、掃除の実(じつ)に至っては、妻君がいまだ生れざる以前のごとく、はたきと箒が発明せられざる昔のごとく、毫(ごう)も挙(あが)っておらん。思うにこの両者の関係は形式論理学の命題における名辞のごとくその内容のいかんにかかわらず結合せられたものであろう。

    吾輩は主人と違って、元来が早起の方だから、この時すでに空腹になって参った。とうていうちのものさえ膳(ぜん)に向わぬさきから、猫の身分をもって朝めしに有りつける訳のものではないが、そこが猫の浅ましさで、もしや煙の立った汁の香(におい)が鮑貝(あわびがい)の中から、うまそうに立ち上っておりはすまいかと思うと、じっとしていられなくなった。はかない事を、はかないと知りながら頼みにするときは、ただその頼みだけを頭の中に描いて、動かずに落ちついている方が得策であるが、さてそうは行かぬ者で、心の願と実際が、合うか合わぬか是非とも試験して見たくなる。試験して見れば必ず失望するにきまってる事ですら、最後の失望を自(みずか)ら事実の上に受取るまでは承知出来んものである。吾輩はたまらなくなって台所へ這出(はいだ)した。まずへっついの影にある鮑貝(あわびがい)の中を覗(のぞ)いて見ると案に違(たが)わず、夕(ゆう)べ舐(な)め尽したまま、闃然(げきぜん)として、怪しき光が引窓を洩(も)る初秋(はつあき)の日影にかがやいている。御三(おさん)はすでに炊(た)き立(たて)の飯を、御櫃(おはち)に移して、今や七輪(しちりん)にかけた鍋(なべ)の中をかきまぜつつある。釜(かま)の周囲には沸(わ)き上がって流れだした米の汁が、かさかさに幾条(いくすじ)となくこびりついて、あるものは吉野紙を貼(は)りつけたごとくに見える。もう飯も汁も出来ているのだから食わせてもよさそうなものだと思った。こんな時に遠慮するのはつまらない話だ、よしんば自分の望通りにならなくったって元々で損は行かないのだから、思い切って朝飯の催促をしてやろう、いくら居候(いそうろう)の身分だってひもじいに変りはない。と考え定めた吾輩はにゃあにゃあと甘えるごとく、訴うるがごとく、あるいはまた怨(えん)ずるがごとく泣いて見た。御三はいっこう顧みる景色(けしき)がない。生れついてのお多角(たかく)だから人情に疎(うと)いのはとうから承知の上だが、そこをうまく泣き立てて同情を起させるのが、こっちの手際(てぎわ)である。今度はにゃごにゃごとやって見た。その泣き声は吾ながら悲壮の音(おん)を帯びて天涯(てんがい)の遊子(ゆうし)をして断腸の思あらしむるに足ると信ずる。御三は恬(てん)として顧(かえり)みない。この女は聾(つんぼ)なのかも知れない。聾では下女が勤まる訳(わけ)がないが、ことによると猫の声だけには聾なのだろう。世の中には色盲(しきもう)というのがあって、当人は完全な視力を具えているつもりでも、医者から云わせると片輪(かたわ)だそうだが、この御三は声盲(せいもう)なのだろう。声盲だって片輪に違いない。片輪のくせにいやに横風(おうふう)なものだ。夜中なぞでも、いくらこっちが用があるから開けてくれろと云っても決して開けてくれた事がない。たまに出してくれたと思うと今度はどうしても入れてくれない。夏だって夜露は毒だ。いわんや霜(しも)においてをやで、軒下に立ち明かして、日の出を待つのは、どんなに辛(つら)いかとうてい想像が出来るものではない。この間しめ出しを食った時なぞは野良犬の襲撃を蒙(こうむ)って、すでに危うく見えたところを、ようやくの事で物置の家根(やね)へかけ上(あが)って、終夜顫(ふる)えつづけた事さえある。これ等は皆御三の不人情から胚胎(はいたい)した不都合である。こんなものを相手にして鳴いて見せたって、感応(かんのう)のあるはずはないのだが、そこが、ひもじい時の神頼み、貧のぬすみに恋のふみと云うくらいだから、たいていの事ならやる気になる。にゃごおうにゃごおうと三度目には、注意を喚起するためにことさらに複雑なる泣き方をして見た。自分ではベトヴェンのシンフォニーにも劣らざる美妙の音(おん)と確信しているのだが御三には何等の影響も生じないようだ。御三は突然膝をついて、揚げ板を一枚はね除(の)けて、中から堅炭の四寸ばかり長いのを一本つかみ出した。それからその長い奴を七輪(しちりん)の角でぽんぽんと敲(たた)いたら、長いのが三つほどに砕けて近所は炭の粉で真黒くなった。少々は汁の中へも這入(はい)ったらしい。御三はそんな事に頓着する女ではない。直ちにくだけたる三個の炭を鍋(なべ)の尻から七輪の中へ押し込んだ。とうてい吾輩のシンフォニーには耳を傾けそうにもない。仕方がないから悄然(しょうぜん)と茶の間の方へ引きかえそうとして風呂場の横を通り過ぎると、ここは今女の子が三人で顔を洗ってる最中で、なかなか繁昌(はんじょう)している。


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