十 - 2

类别:文学名著 作者:夏目漱石 本章:十 - 2

    顔を洗うと云ったところで、上の二人が幼稚園の生徒で、三番目は姉の尻についてさえ行かれないくらい小さいのだから、正式に顔が洗えて、器用に御化粧が出来るはずがない。一番小さいのがバケツの中から濡(ぬ)れ雑巾(ぞうきん)を引きずり出してしきりに顔中撫(な)で廻わしている。雑巾で顔を洗うのは定めし心持ちがわるかろうけれども、地震がゆるたびにおもちろいわと云う子だからこのくらいの事はあっても驚ろくに足らん。ことによると八木独仙君より悟っているかも知れない。さすがに長女は長女だけに、姉をもって自(みずか)ら任じているから、うがい茶碗をからからかんと抛出(ほうりだ)して「坊やちゃん、それは雑巾よ」と雑巾をとりにかかる。坊やちゃんもなかなか自信家だから容易に姉の云う事なんか聞きそうにしない。「いやーよ、ばぶ」と云いながら雑巾を引っ張り返した。このばぶなる語はいかなる意義で、いかなる語源を有しているか、誰も知ってるものがない。ただこの坊やちゃんが癇癪(かんしゃく)を起した時に折々ご使用になるばかりだ。雑巾はこの時姉の手と、坊やちゃんの手で左右に引っ張られるから、水を含んだ真中からぽたぽた雫(しずく)が垂(た)れて、容赦なく坊やの足にかかる、足だけなら我慢するが膝のあたりがしたたか濡れる。坊やはこれでも元禄(げんろく)を着ているのである。元禄とは何の事だとだんだん聞いて見ると、中形(ちゅうがた)の模様なら何でも元禄だそうだ。一体だれに教わって来たものか分らない。「坊やちゃん、元禄が濡れるから御よしなさい、ね」と姉が洒落(しゃ)れた事を云う。その癖(くせ)この姉はついこの間まで元禄と双六(すごろく)とを間違えていた物識(ものし)りである。

    元禄で思い出したからついでに喋舌(しゃべ)ってしまうが、この子供の言葉ちがいをやる事は夥(おびただ)しいもので、折々人を馬鹿にしたような間違を云ってる。火事で茸(きのこ)が飛んで来たり、御茶(おちゃ)の味噌(みそ)の女学校へ行ったり、恵比寿(えびす)、台所(だいどこ)と並べたり、或る時などは「わたしゃ藁店(わらだな)の子じゃないわ」と云うから、よくよく聞き糺(ただ)して見ると裏店(うらだな)と藁店を混同していたりする。主人はこんな間違を聞くたびに笑っているが、自分が学校へ出て英語を教える時などは、これよりも滑稽な誤謬(ごびゅう)を真面目になって、生徒に聞かせるのだろう。

    坊やは――当人は坊やとは云わない。いつでも坊ばと云う――元禄が濡れたのを見て「元(げん)どこがべたい」と云って泣き出した。元禄が冷たくては大変だから、御三が台所から飛び出して来て、雑巾を取上げて着物を拭(ふ)いてやる。この騒動中比較的静かであったのは、次女のすん子嬢である。すん子嬢は向うむきになって棚の上からころがり落ちた、お白粉(しろい)の瓶(びん)をあけて、しきりに御化粧を施(ほどこ)している。第一に突っ込んだ指をもって鼻の頭をキューと撫(な)でたから竪(たて)に一本白い筋が通って、鼻のありかがいささか分明(ぶんみょう)になって来た。次に塗りつけた指を転じて頬の上を摩擦したから、そこへもってきて、これまた白いかたまりが出来上った。これだけ装飾がととのったところへ、下女がはいって来て坊ばの着物を拭いたついでに、すん子の顔もふいてしまった。すん子は少々不満の体(てい)に見えた。

    吾輩はこの光景を横に見て、茶の間から主人の寝室まで来てもう起きたかとひそかに様子をうかがって見ると、主人の頭がどこにも見えない。その代り十文半(ともんはん)の甲の高い足が、夜具の裾(すそ)から一本食(は)み出している。頭が出ていては起こされる時に迷惑だと思って、かくもぐり込んだのであろう。亀の子のような男である。ところへ書斎の掃除をしてしまった妻君がまた箒(ほうき)とはたきを担(かつ)いでやってくる。最前(さいぜん)のように襖(ふすま)の入口から

    「まだお起きにならないのですか」と声をかけたまま、しばらく立って、首の出ない夜具を見つめていた。今度も返事がない。細君は入口から二歩(ふたあし)ばかり進んで、箒をとんと突きながら「まだなんですか、あなた」と重ねて返事を承わる。この時主人はすでに目が覚(さ)めている。覚めているから、細君の襲撃にそなうるため、あらかじめ夜具の中に首もろとも立て籠(こも)ったのである。首さえ出さなければ、見逃(みのが)してくれる事もあろうかと、詰まらない事を頼みにして寝ていたところ、なかなか許しそうもない。しかし第一回の声は敷居の上で、少くとも一間の間隔があったから、まず安心と腹のうちで思っていると、とんと突いた箒が何でも三尺くらいの距離に追っていたにはちょっと驚ろいた。のみならず第二の「まだなんですか、あなた」が距離においても音量においても前よりも倍以上の勢を以て夜具のなかまで聞えたから、こいつは駄目だと覚悟をして、小さな声でうんと返事をした。


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